聞いてたのと違う台湾(1日目:英語封印編)
要去高雄(高雄に行かなきゃ)
卒業旅行の行き先が台湾になった。2018年11月のことだ。
私は自動車教習所に通っていて、そちらの卒業も間近という頃だった。住民票を兵庫の実家に残したままなので、免許を取るには帰省しないといけない。それなら台湾に行くついでに帰省しよう、となると教習を詰め込まなきゃ、1週間空けるから卒論も進めとかないと、というわけで俄に忙しくなった。
台湾旅行の下調べをする時間はほとんど無かった。
教習所の待合室で飛行機のチケットを購入し、教習所の待合室でゲストハウスを予約し、免許試験場の待合室でようやくTripAdvisorを見た。
大学生は何故かやたらと台湾に行き、帰ってくると皆口を揃えて「英語も日本語も通じた」「ご飯が美味しかった」「ホテルが綺麗で良かった」などと言う。じゃあまあ下調べせんでもイケるやろ、と高をくくっていた。
友人たちもそれぞれ忙しく、私だけ1日半早く台湾入りすることになった。
ずっと台北にいてもよかったが、高雄出身の知人の言葉を思い出した。
本当の台湾は高雄にありますよ
明石で運転免許証の交付を受けてから24時間後、私は高雄国際空港に到着した。
英語が通じない
空港についてすぐにレンタルWi-Fiのカウンターに向かって、ずいぶん久しぶりに英語を使った。
「予約していた○○です。ルーターを5日間レンタルしたいのですが。」
私と同年代の職員は、愛想笑いをするだけだった。まさか国際空港のWi-Fi貸し出しカウンターで英語が通じないとは思っていなかった。しかし、この世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔なわけで、彼女の愛想笑いが言わんとしているのもそういうことだった。それだけがこの世界の全てだった。*1
そんなこんなで空港を出て、ゲストハウスの最寄りの高雄駅まで来た。チェックインの時間まで少しあるので荷物を預けたいが、コインロッカーが見つからない。観光案内所に入って、あまり期待していないが一応英語で尋ねてみた。人の良さそうなおじさんはうんうんと頷いて、
"It's lunch time now."
と言った。まさかコインロッカーがランチタイムなわけあるまい。おじさんのランチタイムを邪魔したのなら申し訳ないなと思いつつ、スマホで中国語に翻訳して訊いてみたら地図を出して普通に教えてくれた。礼を言って観光案内所を去ると、おじさんはそのままデスクに戻ってパソコンに向かった。誰がランチタイムだったんだ。
高雄は散歩するには楽しい街だ。大した名所こそないものの、歩いていると景色がコロコロ変わる。駅前の植え込みでおじさんが野糞しているかと思えば、夜市の裏の駐車場で京劇をやっている。他人が脱糞しているところも京劇も、生まれて初めて見た。
そこら辺を歩きまわって時間を潰してからゲストハウスに向かった。1泊1000円ぐらいで予約したところだ。不安を通り越して楽しみだった。
ゲストハウスの受付は無人だった。大きなディスプレイが置いてあって、そこに各部屋のベッド番号と宿泊者の氏名が表示されていた。
私の名前は、「女生背包房/Female Mix Domitory」の106番と109番に記されていた。
それは困る。2ヶ所あるのはまあ良いとして、成人男性がFemale Mix Domitoryに案内されようとしているのはまずい。すぐにLINEでオーナーに連絡をとって解決を訴えた。そのあと、"This is a pen."よりも使わなさそうな一文を添えて補足した。
"I'm a man."
すぐにディスプレイの表示が修正され、私の名前は「男生背包房/Male Mix Domitory」に移動した。LINEには「あなたは予約時に女性として登録していましたよ。でも気にしないで。滞在を楽しんでくださいね!」みたいな英文が返ってきた。
予約確認メールを見たが、性別欄には「M」と書いてあった。
これ以降4日間、台湾では一切英語を使わなかった。
ゲストハウスは1泊1000円程度にしては非常に良いところだった。もっとも、1泊1000円だと「屋根と壁があって、ベッドもある」だけで非常に良いところだったといえる。
ただ2つだけ、
- 部屋に窓がない
- 部屋に窓がないのに、外で爆竹を鳴らしている音が早朝から間近に聞こえる
のに困らされた。
特に2つめに関しては、同室の台北から来たバンドマンたち*2も相当驚いていた。
台湾はこのときお祭りのシーズンだったらしく、このあと4日間で何度も爆竹にビビることになる。
贅沢をするとバチが当たる
大間のマグロを食べに行く(学生の分際で)
普段は貧乏学生らしく半額のカツオなどを食べているが、やはりマグロが食べたい。魚といえばマグロ、マグロといえば大間。学生の分際で大間のマグロを食べに行った。
札幌から夜行バスに乗り、朝5時半の函館に投げ出される*1。この時点で身体はボロボロだ。
とりあえずハセガワストアでやきとり弁当を買って食べた。
早朝の住宅地に響き渡る「イガ~~!イガイガ!」の声の主を追いかけたが、ついに見つけられないまま遠くに行ってしまった。今調べてみたらイカの移動販売は1kg単位での販売らしい。軽い気持ちで買わなくてよかった。
始発の路面電車で谷地頭温泉に行ったりして、なんとか4時間の暇を潰した。
ようやくフェリーに乗ると2時間半で大間に着いた。意外と近い。この日は8月31日で、ほとんどの乗客は北海道旅行を楽しんだ帰り道のようだった。一方この貧乏学生は今から旅を始めようとしている。
港から40分ほど歩いてまずは大間崎に向かったが、到着する直前で急に大粒の雨に降られてしまい、そのまま沿道のマグロ屋に駆け込んだ。この旅の目的はかくもあっさりと果たされた。
上の写真でわかる通り、ウニも乗っているやつにしてしまった。学生の分際で。
気持ちの準備ができる前に店に入ったので、ついうっかり「生のマグロですか?」と訊いてしまい、「当たり前じゃない!」と軽く怒られた。そりゃそうだ。
マグロ(とウニ)の味は言うまでもなく、大間まではるばる食べに来たというので更に美味しくなっていた。人間の味覚なんてそんなもんだ。
雨が止んで店を後にし、人並みに本州最北の地を観光したあと、例によって時間が余ったのでスーパーを探索した。大間の人は大間のマグロを食べないらしい。すぐそこの海で穫れるクロマグロではなく、遠くインド洋から来たミナミマグロが並んでいた。
料理が美味しい宿に泊まる(学生の分際で)
さて、函館から来た旅行者が大間からコマを進めるとなると、選択肢は2つある。むつ行きのバスに乗れば、途中で温泉に入ったりしつつ下北半島最大の町に行ける。いっぽう佐井行きに乗ると、交通困難なよくわからない村に連れていかれる。選ぶべき道は明らかだ。
バスに乗って30分、私はこの交通困難なよくわからない村に降り立った。
15時をまわった頃だったが郷土資料館は既に閉まっていて、私はまたもや大いなる暇に直面した。
村一番の集落は、ほんの小一時間歩くだけで隅々まで知ることができた。道ですれ違う人々は老若男女問わずみな私に挨拶をした。これが歓迎を示すものなのか、それとも見慣れぬ人間の正体を推し量るための行動なのかは分からない。少なくとも、私の存在は彼らにとって日常ではなかったようだ。
そろそろ私の存在が村じゅうの話題になったのではないかと思われるぐらい散歩をして、予約してあった民宿に辿り着いた。
ここは本当に良い宿だった。海の音が聞こえる畳の部屋で昼寝をして、ヒバの良い香りのする大きなお風呂に浸かって、海の幸や山菜をたらふく食べ、君も常連になれと言われながら常連さんに日本酒をいただいた。
もちろん、翌日の朝ご飯もたらふく食べた。
ちなみに1泊2食で6500円。安い。
学生の分際で贅沢をしたバチが当たる
佐井村は前述の通り交通困難な地だ。県庁所在地の青森市まで車で行くと陸奥湾をぐるっと回るので数時間かかり、また冬にはいくつかの道が通行止めになって行き止まりの村になってしまう。そこで、陸奥湾を横断する船が運航されていて、これだと青森まで2時間半で行くことができる。この航路は法律で離島航路に指定されていて、陸続きの場所を結んでいる離島航路はたぶんここと高知県の須崎市営巡航船だけだ。
翌朝、この船に乗って脇野沢(まさかりの左下にある港)まで行き、そこからまたバスと列車を乗り継ぐことにした。
女将さんは「今日は風が強いから欠航かもしれないよ」と言い、港まで送ってくれた方*2は「動いてもかなり揺れるぞ」と言った。私は朝食のご飯を2回もおかわりしたのを後悔した。
結局、船は動いた。風速10m/s以上で欠航のところ9m/sだったらしい。港の窓口には酔い止めの薬がご自由にどうぞと置いてあった。乗組員に「初めてかい?今日は本当に揺れるから後ろに座りな」と言われ、誰もいない客室の一番後ろの席に座って覚悟を決めた。
今まで乗った乗り物のなかで一番揺れてる pic.twitter.com/d7MMOXLIhk
— ひたさす (@hita_sas) 2019年8月31日
なんなら停泊中にも揺れていた。港外に出ると上の動画のありさまで、船体が波にぶつかる度に重低音が響き、窓からは空と海が交互に見えた。
本来なら佐井を出ると村内のいくつかの港に寄っていくのだが、乗客がいなかったからなのか波が高くて接岸できないからなのか、脇野沢まで1時間半ノンストップだった。
8時30分に脇野沢に着いて、ここまで唯一の乗客だった私は数人の乗客と入れ替えに船を降りた。しばらく集落を散策し、9時03分のバスに乗るため港に戻った。しかし待てど暮らせどバスは来なかった。
この日は日曜日だ。そして私は旅程を立てる時に平日ダイヤを見ていた。あほみたいな間違いだ。つまり次のバスが来るのは10時33分で、あと1時間半ある。
かなりショックだった。理由はふたつある。ひとつは、今までそれなりに旅行してきた自分がまさかこんなしょうもないミスをするとは思っていなかったから。そしてもうひとつは、船を降りて30分ほど歩き回った結果、ここに1時間半を潰せるような所は何も無さそうだとわかっていたからだ。そもそも住民の姿を全く見かけなかった。
- 朝から開いているカフェや食堂は無い
- 道の駅と野猿公苑までは徒歩50分
- バスが通る隣の集落までは徒歩90分
逃げ道はなかった。
まず始めに、地元の神社の軒下にいつも浮浪者がいたのを思い出し、私も1時間だけそうなろうとした。しかし、横になった途端アリの群れに四肢を噛まれたので退散した。
地図にない遊歩道を見つけたが、土砂崩れで立入禁止になっていた。
海釣り公園と海水浴場は休業中だった。
自販機でジュースを買おうとしたら500円玉を雑草の中に落とし、かなり探したが見つからなかった。
これはバチが当たったなと直感した。この小さな不幸の連続は間違いなくバチだ。何のバチかはわからないが、とりあえず、曜日を間違えた自分のせいにはしたくなかった。そして、さっきの神社に戻って失礼を謝った。
残りの1時間は大人しく海を眺めて過ごした。
これからの数日間は本当に慎ましく旅をした。贅沢をしたせいでお金がなくなったからというのもある。
札幌市資料館からアクセスされた方へ
本日は、北大写真部冬展にお越しいただき、ありがとうございます。
このブログは、私が今回の作品を制作中に思いつきで開設したものです。
詳しい経緯は2/10の投稿(人はいつか死ぬということを思い出したのでブログを始める - 旅の恥を書き捨て)にありますが、そういうわけで、投稿のストックがありません。ただ、旅のストックなら山ほどあります。会期中にどんどん書いていこうと思いますので、もしよければ、何日か経ってからまたこのブログのことを思い出していただければと思います。
また、私は当然これからも旅を続けます。写真展が終わってからも、ここで旅の記録を続けていければと思いますので、何ヶ月か何年か経ってからこのブログのことを思い出していただければ、とても嬉しいです。
今日この写真展にいらっしゃった方の中には、もしかすると、旅の途中でこの札幌市資料館を訪ねたという方もいらっしゃるかもしれません。どうか道中お気をつけて、良い旅を楽しんでください。
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札幌市資料館以外からアクセスされた方へ
このブログは、「北大写真部冬展」内「旅展」での私の作品にあわせて開設したもので、このページにジャンプするQRコードが私の作品に設置されています。
北大写真部冬展は、札幌市資料館(中央区大通西13)にて、2020年2月11日から2月16日まで開催中です。ぜひお越し下さい。
散居村を見に行く
”教科書のやつ”を見に行く
「これ、教科書で見たやつや!」という楽しみがある。
特に日本史とか地学とか、教科書に挿絵がたっぷり載っている科目がいい。例えば、なんとなく入った福岡市博物館で「漢委奴国王」の金印を見たり、そのへんの崖とかで断層がはっきり表れていたりするのを見る。そうすると、授業中に資料集をパラパラめくって暇を潰していた10年ほど前の薄い記憶が呼び覚まされ、「これ、教科書で見たやつや!」と軽い興奮を覚える。ギリギリ覚えているぐらいのものだと、楽しみもひとしおだ。
散居村は、そういう意味でちょうどよかった。散村とも呼ばれる、農地の中に農家が散らばっている集落形態のことだ。地理の資料集はたいてい「都市と村落」の章があって、塊村や路村の航空写真と一緒に、斜め上から見た散居村の写真が載っていた。
これ、航空写真じゃないらしい。
国内最大の散居村がある砺波平野(教科書で見た名前や!)には、散居村を眺めるための展望台があって、まさに教科書と同じ風景が拝めるらしい。見に行かねば。
自分でもなぜこんなに興奮しているのかは分からないが、すぐに夜行バスのチケットを取った。
理想の学習
大阪から夜行バスで金沢へ、そこから色々やって、昼過ぎに福光駅前から井波行きのバスに乗った。
当たり前かもしれないが、車窓からは散居村らしさが感じられなかった。龍安寺の石庭を真横から見ても何もわからない、みたいなことなんだろう。
「幕府の巡見使に石高を少なく見積もらせるため、農家を点在させて広大な農地を隠した」という言い伝えがあるのも頷ける。
井波は富山県の南西側、南砺市にある瑞泉寺の門前町だ。井波彫刻という木彫りの工芸品が有名で、これは瑞泉寺で何度も火事が起き、その度に井波の職人によって再建されてきたので技術が磨かれたというものらしい。彫刻より防火の技術を磨いたほうがよかったんじゃないか。
目的地の展望台はこの瑞泉寺の後ろの山にある。観光案内所で電動自転車を借りて、壁のようにも見える山を登る。
「これは川ではない、滝である」の常願寺川があるのも富山だったなとか考えながら、休まるところのない急坂を20分ほど登り続けると、目的の展望台に着いた。平日の昼間なのに意外と人がいる。みんなそんなに散居村が好きなのか。
教科書で見たやつが眼下にあった。「広大な農地の中に民家が点在し、風上側に屋敷森がある」という教科書の説明どおりの景色だ。はるか昔にこの砺波平野を作り出し、今も田畑に水をもたらしている庄川の流れが見える。教科書と同じ風景が、教科書よりもずっと分かりやすくこの地の仕組みを解説してくれている。完全に理解した。たぶんこれが理想の学習だ。
おまけ
こうしてこの旅最大の目的は達成されたが、ついでに見てきた福光の町も良かった。
福光は麻布と生糸の商売で栄え、山の向こうの金沢から富と文化を享受してきたらしい。
福光の街なかはほとんどの道がクネクネしているのが良かった。碁盤の目の平坦な町で暮らしていると徐々にクネクネが欠乏してきて、こういう町が琴線に触れるようになる。道の真ん中のスプリンクラーから錆が流れ出て茶色くなっているのも、北陸らしくて良い。
目抜き通りから一本入ると、道はクネクネを越えてグネグネになる。こんな通りが小矢部川沿いに三条ほど並んでいる。
どじょうの蒲焼きが名物らしい。人通りのない目抜き通りに面した蒲焼き屋の店内は薄暗く、隣の旅行代理店と中で繋がっている。どじょうは1本130円、うなぎは700円。色々なことが少しずつ不思議なので、夢でも見ているような気分になってくる。
帰りの新幹線で食べたどじょうの蒲焼きは、辛めの味付けで案の定ビールにとてもよく合った。ほんのりと泥臭さがあって、展望台から眺めた水田の広がる景色を思い出した。たぶんこれが理想の復習だ。
おまけ2
福光の和菓子屋で知らないビン牛乳を買った。私は大学の牛乳同好会に所属しているので知らない牛乳があれば買うようにしているが、この「水口牛乳」はよくわからない。
まず、公式のHPがない。ネットの牛乳ビン・キャップ収集家さん達(そういう方々がいるのだ)にもあまり言及されていない。何人か買ってらっしゃる方もいるが、どうやら福光の街なかにあるいくつかの個人商店ぐらいでしか売っていないらしい。宅配がメインなのだろうが、置いてある店がかなり少ないため宅配の規模も小さいと思われる。あと、コーヒー牛乳もあるらしい。
さらに、たまたまTwitterで流れてきた画像を見て仰天したのだが、90mlビンの牛乳もあるらしい。普通の牛乳ビンは180mlか200mlで、90mlビンは滅多に見かけない。
https://twitter.com/pio_pio_11/status/1212651546527141888
隣町の城端には「水口乳業」があって紙パックの牛乳を製造しているが、これとは別の会社らしい。こちらもHPがない。
色々調べていると知らない乳業メーカーがたくさん出てきて、また富山に行く理由ができてしまった。
2日で7回乗船した
最初の記事で、「旅先での”ここぞ”の36枚が全部消えてしまった。」と書きましたが、その消えてしまった写真を撮ったのがこの旅です。
島萌え
島に萌える。理屈じゃない。
いつものようにあてもなくGoogle Mapを見ていたら、ある島に一目惚れしていた。
いちおう本州と橋で繋がっているのだが、海を7回渡らなければいけないらしい。
ロマンだ。
まわりの島々も旅の目的地として十分魅力的だったし、ここに行く船のサイトの見づらさにさえも惹きつけられた。(バスに至ってはHPすら無かった)
いくつかの島を1日で巡るプランを立てて、宿だけ予約した。
岡村島
かくして私は船上の人となった。
詳細は省くが、
- 神戸港からジャンボフェリーに乗って朝5時に高松に到着し、
- レンタサイクルで夕方まで駆け回って8軒のうどん屋を巡り、
- 普通列車に3時間揺られて今治のゲストハウスに投宿し、
- 翌日朝イチでまたレンタサイクルを借り、その自転車とともに
岡村島行きの船に乗り込んだ。
ジャンボフェリーと讃岐うどんについては今度またたっぷりと書きたい。
年の瀬も年の瀬、12月29日だったので、今治の街で年越しに必要なものを買い出してきた人たちや、島に帰省する家族連れたちで客室はいっぱいだった。船は桟橋を離れるとやがて来島海峡大橋の下をくぐるが、それにカメラを向けているのは私だけだった。いいアウェイ感だ。
船は途中の3つの港で乗客たちを降ろしてゆき、最後の岡村島まで乗ってた人たちも、すぐに各々の家路へと消えてしまった。
事前にネットで調べたところ、岡村島には何もないことがわかっていた。正確には、年の瀬の朝方にやってきた時間のあまり無い若者が、何かを味わったり観光した気になれるようなところはなかった。
岡村島に降り立った私はまず集落を一周して、どうやらその通りであることを確認した。それで満足だった。そして自転車でもう一周、チャーミングな路地を流して、満足に満足を重ねた。
大崎下島(御手洗)
さっきの岡村と同じく、こちらも潮待ちの港として栄えたところらしい。確かに、穏やかな海の、ひときわ穏やかなところに沿って小さな町がある。
古くは港町や遊郭の町として栄え多くの船乗りを迎えた町並みが、今はその美しさを求める観光客を迎えている。人に勧めにくい所ばかり旅行している私にしては珍しく、ここはかなり人に勧めたい所だった。
ご飯を食べる所だっていくつかある。旅館だった建物を改装したお店で、自信に満ちた厚さのタイのお刺身を食べた。
道のそこかしこにはみかんの無人販売があって、青果店(というより、卸売の倉庫のようだった)では搾りたてのジュースが飲めた。お若いからいっぱい食べるでしょ、とみかんの詰め放題300円を勧められたが、丁重にお断りした。2kgは入るらしい。
島の街なかというのはどこでも、「道に沿って家が並んでいる」というよりは「家を建てて余ったところが道になった」というようになっている気がする。 船に乗って生きる人たちだからなのかもしれない。
実際に今でも船はこの地域のメインの公共交通になっているようで、バス(広島や呉からやってくる)よりも船の本数のほうが多いし、竹原に行く高速船の発着場はバス停のように点在している。
瀬戸内海は穏やかだ。小さな旅客船でもバスより揺れが少ないし、時刻だって正確に、しかし気軽に運航している。
次の島に向かうフェリーも、ランプウェイをちょっとだけ上げて、クルマの固定もせず、気の抜けた汽笛を一笛吹いて、時間通りに出港した。
契島
大崎下島の小長港から大崎上島の南側にある明石港に渡り、6kmほどヨロヨロと峠道を走って、島の北側の白水港まで来た。ここから更にフェリーに乗って契島を見に行く。
”見に”行くと書いたのは、この島に上陸することができないからだ。島全体が鉛の精錬所になっていて、一般人は立ち入ることができない。しかし工業を全面に押し出した、その無骨な―生きている軍艦島と呼ばれることもある―姿を、フェリーから眺めることはできる。
白水を出港して、途中別の島を経由しつつ30分ほどで契島に着岸する。桟橋の先はもう工場になっていて、というより桟橋が工場の一部のようになっていて、部外者の私はそれを眺めることしかできない。
精錬所には宿舎があって従業員やその家族が住んでいるから、町もいちおう町役場との間にフェリーを走らせている。しかし本土の竹原との間に従業員専用フェリーがあるので、町営フェリーのほうは殆ど使われていないようだ。
じっさい、他の乗客はみんな行きの寄港地で降りてしまった。そこから契島に行って白水に帰るまで、船員3人に対して乗客は私1人だった。私が払った運賃580円と大崎上島町民の税金で、大きなフェリーが動いていた。
大崎上島(木江)
また峠道を越えて、島の南側に戻る。
木江もまた潮待ちの港として、そして遊郭の町として栄えたところだ。昔の目抜き通り沿いに木造3階建てやカフェ―建築が並ぶ。町外れには木造5階建てだってあった。
濃密な空間だった。潮流や荒天をものともしない船の登場によって、時間の流れから置いていかれたような街並みだった。港のおばちゃんは、私がここから帰れるのかどうかをやけに心配してくれた。
大三島(宗方)
フェリーに乗っている10分間で完全に日が暮れた。
宗方に来たのは船の乗り継ぎのためだったが、港のまわりには20分の待ち時間を潰せるようなところはなかった。
大量の柑橘類が並ぶ待合室でNHKを見て、今治に帰る船の時間になったので桟橋に向かうと、今度は雨が降ってきた。
おばちゃんに傘を貸してもらいながら、みかんでも買っときゃよかったな、と思った。
人はいつか死ぬということを思い出したのでブログを始める
タイトルが不穏ですが、本人は心身ともに至って健康です
旅行が好きで、時間かお金があればすぐに旅行に行く。(両方揃うことはまずない)
旅先では当然何枚も写真を撮るし、SNSにも投稿する。
写真についてはめんどくさいこだわりがあるから、”ここぞ”の写真はフィルムカメラで撮って、自分で現像してプリントする。
それが先日、現像を失敗した。つまり、旅先での”ここぞ”の36枚が全部消えてしまった。
とても悲しかった。悲しさのあまり、暗室で死について考えた。
いつか心臓が止まって、脳に血がいかなくなって、自分の記憶もこのフィルムみたいに消えてしまう。自分が旅をした証を残したい、自分の墓銘は自分で彫りたい。
で、ブログを始めることにした。
一人称、僕と私どっちがいいと思います?